山田先生インタビュー 現代都市の”あそび”環境をデザインする

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習い事ってやっぱり通わせた方がいいの? 環境って親が整えるべき? 親が期待する将来像。こどもに押し付けちゃいけないって分かっているけど…。 今回は、脳科学と教育学を専門とし、玉川大学教鞭をとられている山田徹志先生に、都会で子育てするお母さん、お父さんが抱えている様々な疑問をお伺いしました。 「あそび」が重視される最新の研究から、あそびコンシェルジュの話まで、専門家による視点からお話いただきます。
あそぶ習い事のボクシング
幼少期、いくつもの目があったからこそ、あそびが充実していた。
山口:本日はよろしくお願いします。まず先生がどんな環境で育たれたのかおしえて頂けますか? 山田:近くの緑地でクワガタ取りをしたり、野川でザリガニとりしたりと、よく自然と一緒に過ごしていました。父があそびゴコロのある人だったというのもあり、物心ついた2,3歳くらいから家族でよく行っていました。 山口:ご両親が「自然の中で子育てしよう」という教育方針があったのですか? 山田:いえ、教育方針ではなくて、もともと父がそういうのが好きだったんです。母の方はむしろ虫が苦手で(笑)。 山口:小学校に入られてからは、どんなお子さんでしたか? 山田:勉強があまりできない子でした(笑)。小学校3年生の時に、唯一クラスでカタカナが書けていなくて、親が呼び出されたことがあります。両親とも小学校の先生でしたが、勉強しろと言わなかったんですよね。カタカナの練習するくらいだったら、静かーにランドセル置いて、山や野原に行ってました(笑)。 山口:小学校の先生だけど、勉強しろと言わなかったんですね!?これはお父さんの方針ですか? 山田:そうですね。「勉強は、好きな時に必要になったら自然と自分からするもの」だから、それよりも、限られたこども時代にしかできない、自然や人と関ることを大事にしなさいと。人に迷惑をかけたり、ケガしそうな時はものすごく怒られましたが、危ないからやらないではなくて、やってみて危機管理能力を身に付けました。 父の他にも、年上のお兄さん・お姉さん、おばあちゃんなど、地域全体でいくつもの目が見守ってくれていたことが、あそびが非常に充実した一つの大きな要因だと思います。
どうして「あそび」が重要?自己選択・自己決定のプロセスとは。
山口:先生にとって、「遊ぶ」とは何だと思いますか? 山口:私の研究室では、こどもの「あそび」の解明・研究をしていますが、まず、漢字の「遊」を考えると、旗の形と遊ぶこどもの形で、何かに守られて安心しながら自由にあそんでいるに様子を表しています。
あそぶ習い事のラグビー
山口:「安心」と「自由」というのがキーワードなのでしょうか? 山田:はい。あそびには、まず「安心」があるのが重要です。この安心を突き詰めると、ココロの自由だと考えています。私たちは、あそびと仕事を乖離して考えていますが、有名な研究で「ホモルーデンス」という言葉があるように、本来人は遊ぶ生き物であり、すべてはあそびなんです。「あそび」とは、「自分で考えて決められる自由」だと思うんです。 山口:「自分で考えて決められる自由」ですか。その反対は他人に決められることですか? 山田:そうですね。自律能動的に決めるのは、実はすごくゆとりがいることなので、他人が決めると、「あそびゴコロ」失われてしまいます。「自己選択・自己決定」のプロセスがあることが、あそびの本質なんですよね。これは仕事でも、人間関係でも実はとても重要で、やはりあそびというのは生きることに近いと考えています。 山口:「自己決定・自己選択」のプロセスがあることは、生きる上でなぜ重要なんですか? 山口:それは、「あそびによる学び」が重要だからです。昨今の教育研究では「コンテンツ」と「コンピテンシー」の話が非常に話題ですが、「コンテンツ」とは、計算や語彙力など認知的なもの、「コンピテンシー」は人間性など非認知的なものです。両方重要ですが、前者は測定しやすい一方、後者は評価が難しく軽視されがちでした。しかし、その「コンピテンシー」が実は非常に重要だと言われ始めていて、それは正に「あそびの中から育っていく」ということが、最近の研究で分かってきました。
「意図して学ばせる」vs「自由に学び取る」。大人による環境介入は必要?
山口:先生にとって、「学び」とは何ですか? 山田:あそびには「自己選択・自己決定」があると言いましたが、学びもやはり自分の「動機」です。例えば、ただ英単語を覚えさせられるより、どうしても話したい女性がいれば英語を道具として使う「動機」が出てきますよね。つまり「動機」こそが学習の根源なんです。 山口:なるほど。 山田:私は「動機=興味・関心」の研究をしています。心が動かされるエネルギーがともなった時に「興味・関心」が生まれ、そしてそれが「あそび」になった時に「学び」が生まれるのです。 山口:なるほど。他人から押し付けられるものではなく、自分の中から湧き上がる「興味・関心」や「動機」をベースに学びが生まれるのですね。それは「あそび」とどう関係しますか?
あそぶ習い事のサッカー
山田:あそびの本質が「自己決定・自己選択」するプロセスだとしたときに、その全てが「学び」です。例えば、3歳の砂あそびを大人が見ている時に、砂で遊んでるな、と単純に思うかもしれませんが、こどもたちが五感で学び取っているものは、もっと崇高な概念が含まれています。砂の山から水を流すと低い所に流れていくな、大きな山は一人じゃ作れないけどお友だちと協力すればできるかな、などと感じているはずなんです。物理の法則や、コミュニケーション能力が含まれる複雑な学習があります。「あそび」というのはまさに主体的な学び、そのものです。 山口:「主体的な学び」というのが、「あそび」の定義なのですね。幼少期に、その「あそび」が少なかった子と、「あそび」が生活に満ちていた子では違いはあります? 山田:その分野は様々な研究がされています。例えば、基礎体力や運動能力が、習い事などで訓練していた子と、自由にあそびの中で体を動かしていた子で、どのような違いがあるのか9,000人を対象に調査した研究があります。総じて「色んなあそびを経験した子の方が、運動能力が高い」という結果がでました。かけっこで遊ぶときも、直線で走るだけでなくカーブやジグザグがあったり、一本橋渡りでは体幹でバランスをとったりしています。そのような多様な運動経験があそびを通して行われたことで、このような結果が出たと考えられます。それと同様に語彙に関してもあります。 山口:言葉もあるのですね。体力だけではなくて? 山田:そうなんです。御茶ノ水の先生の研究で、習い事を通して言葉を習った子と、主体的なあそびを通して身に着けた子の語彙数を比較してみると、最初からほとんど有意な差はなく、10歳になるともうほとんど相関が無くなくなってしまうという結果が出ました。そうなると、見解にもよりますが、早期教育は意味がないですよね。言葉にとても興味がある子に対しては効果を発揮するのかもしれませんが、そうでない場合は逆にやされていることで混乱を招くケースもあるんです。この研究で示唆されているのは、その子に合っていないものを無理に入れてしまうと、逆効果が出てしまうことがあるということですよね。
あそぶ習い事
山口:「意図して学ばせること」と、「自由に学び取る」ことは全然違うのですね。この2つの決定的な差は、「動機」の差なのかなとお話伺っていて思いました。その子に合っていないものを学ばせることは、動機を減衰させる危険性があって、逆に自由に学び取らせることは、動機を育んでいく感じがしましたね。 山田:そうですね。「動機」の違いというのは、私は個性の違いだと思っています。電車を通して動機が高まる子もいれば、その題材がアニメやサッカーの子もいる。ですから、自律能動的にとはいえ、全部が全部、好き勝手に、はいどうぞではなく、ある程度の環境的な加入がないと、その子の個性に合った機会をつくるのは実は難しいです。あくまで、あそびによる学びというのは、環境との相互作用のため、環境がなければ、作業する機会すらないという風にとらえられます。 山口:遊ぶ環境というと、やはり自然のたくさんある田舎より、自然の全くない都市g不利でしょうか? 山田:私はそういうことではないと思います。実際問題、いつも海に行けるかと言うと都心の人は難しいですよね。そうではなく、心が駆動するものとは、まさに生活の中にあるものだと思っています。こどもたちの心が動き、わくわくするような経験ができる環境が生活の中にあることが大事です。
「こどもがやりたい事」と「親の期待」がズレているときは?「あそびゴコロ」の重要性
山口:動機の向かう先を追及していった先にあるのが、例えば昆虫博士などだと思いますが、こういう大人になってほしいなという親の判断がどうしても入ってしまう気がします。これはこどもにとっていいことでしょうか? 山田:とても鋭い質問ですね。実はこどもの動機の向かう先を見つけるのは、すごく難しいことです。こどもが育とうとする姿と、周りの大人・親が育ってほしいと思う姿が乖離していることが多く、この乖離が大きいと、つまりこどもの「動機」の向かう先が見つけられないということです。
乖離していることが少ない
山口:なるほど。子と親の動機が重なっていない場合、つまり親が見られていない部分にこどもの「動機」が向かっている場合の弊害はどんなものでしょうか? 山田:親がこどもの「動機」に合った環境を用意できないということです。環境が用意できると、お互いの動機の重なり部分も広がります。こどもの「動機」の向かう先を探すには、「あそびゴコロ」が非常に重要です。例えば泥団子作りでも、ただ団子できたね、ではなく、触ると砂ってあったかいね、など、その面白さや尊さが分かるココロが大切です。こどもが自分で全部環境を用意するのは難しいので、一番近い親がそのココロを持っている必要があると思います。
重なりを広げるには「あそびゴコロ」が必要
山口:ユーグレナの社長の出雲充社長とお会いした時に、こどもの頃はずっとザリガニを見ていたと聞きました。親御さんは、よく分からないけれど、我慢してた、という表現をされていたんですよ。親にとって心躍らないことに対して、我慢はやはり必要ですか? 山田:必要だと思います。あれさせなきゃ、これさせなきゃというも気持ちも分かるのですが、我慢って、あそびゴコロだと思うんですよ。心のゆとりがないと絶対できません。親が我慢が出来ると、つまり「待つこと」と「聞くこと」ができる。そうすると先ほどの弁図のように、こどもの「動機」が今何に向いてるのかというのが見えてきます。 山口:親もあそびゴコロが無いと、こどもの「動機」の向かう先が発見できないのですね。「あそび」についても、親は積極的に環境を用意した方がいいのでしょうか? 山田:「あそび」の環境設定は、その子の状況によって変化させる必要があり、「あそびコンシェルジュ」とも言える難しいスキルだと考えています。実は保育士は、ここまでは環境を設定するけれど、これ以上は自由にさせるなど、非常に繊細な目で、こども一人ひとりに応じて対応を変化させています。これは親だとどうしても難しい部分があるので、保育園や幼稚園などの強みは、あそびの環境の絶妙なバランスがとれる保育者が一緒に遊ぶということだと思います。
両輪の話~「意図して学ばせる」ことと「自由に学び取る」ことのバランス~
山口:意図して学ばせることと、自由に学び取ることがあったときに、正直言うと習い事は全部前者ではないかと思うのですが、先生は習い事をどう見てらっしゃいますか? 山田:かなりはっきり言うと、完璧な一方向的な習い事は、意味がないと思っています。強い言い方ですが、使い方を間違えると弊害にもなり得ます。「意図して学ばせること」と、「自由に学び取ること」は実は相反するものではなくて、車の両輪のようにどちらもバランスよく重要です。でも、今の習い事は前者に偏っている。個性に合っていない辛いものを毎日やれやれ、と言われるのは私たち大人もきついですよね。それで嫌になって辞めてしまって辞め癖がついてしまう方が余計心配です。 山口:車の両輪ですね。意図して学ぶこと自体を否定されているわけではないのですね。
両輪のバランス
山田:はい。1+1など、生きていくうえで必要なものは分かっていた方がいいですからね。では、両輪がバランスよく駆動するために何が必要かと言うと、それこそが「あそびゴコロ」です。あそびという基礎力があれば、その中にやらなければいけないことがあって、学んでいきます。 山口:なるほど。「意図して学ばせること」も「あそびゴコロ」を介していないといけないのですね? 山田:はい。そうでないと、応用力が効かないものになってしまいます。この分野も今研究が盛んになっていますが、自分がやりたいという目的があるから、応用力がある学びができるのです。人工知能の発達など社会変革がものすごく速い時代に、環境に合わせてルールを作ったり、自ら選択できる応用力が非常に重要になると思います。
環境設定の重要性と、現代ならではの難しさ~あそびコンシェルジュ~
山口:あるデータで、「こどもはのびのび育った方がいいですか?ある程度管理した方がいいですか?」というアンケートをとると、9割の親がのびのび育った方がいいと答えるそうです。分かってはいるけど、実際問題どうしたらいいか分からなくて、親がいいなと思った方向に仕向けてしまうことが実は多いと思います。 山田:それで悩んでいる親御さんはかなり多いと思います。特に現代は、近所の人や親戚との関りが希薄化していますし、物的な環境も減少しています。大きな公園が近くになかったり、ボールあそびは禁止だったり。または山へ遠出しても、そこで見つけた虫への興味を都市に帰ってきてから広げられるかというと難しいですよね。経験が点から線にならないから意義が薄まってしまうこともある。こういう今だからこそ、こどもが主体的に遊べる環境を意図的に用意する必要性がでてきたんです。そこで、こどもに応じた環境設定を、より詳細にできる「あそびコンシェルジュ」がいるようなあそび場があると革新的だと感じます。待機児童問題を考えると、保育園とか幼稚園だけではもう補えないですし、では休みの日にお父さんお母さんがすごく充実して遊べるのかと言うと、多分困っていますよね。
都市で最適な”あそび”環境をデザインする ~PAPAMOの取り組み~
山口:「意図して学ぶこと」と、「自由に学び取ること」の両輪を繋ぐエンジンが「あそびゴコロ」だとすると、今PAPAMOがやろうとしている事は、前者のフォーマットに「あそびゴコロ」を持ち込もうとしていることだと思います。先生から見られてPAPAMOはどう見えますか? 山田:私にとってすごく刺激的でした。PAPAMOさんは、こどもの動機の向かっている先をよくくみ取って、それを継続的に保護者に丁寧にフィードバックしているんですよね。自分のあそびを決めていく「自己選択・自己決定」のプロセスが環境の中に組み込まれているということが、私は自分のこどもだったら行ってみたいなと正直に思いました。このフィードバックは、園でも努力しているところも多いのですが忙しいので限界があるんですよ。 山口:究極的に大事なことを2つに絞ると、こどもの「動機」の向かう先を発見して理解することと、その「動機」に向かえる環境を整えることだとすると、親はどうしたら動機を見つけることできますか?
あそぶ習い事のボールあそび
山田:こどもが遊んでいるところを、粒度の高い目で丁寧に見ることだと思います。さらに、第三者の視点が必要だと考えています。幼稚園の担任でもひとりでは難しくて、他の担任の先生や保護者の話があって初めて、理解できる。これが今必要とされている多様な目があるという事ですよね。 山口:なるほど。「動機」が向かう先を見つけるには、目の細さと、目の多様さが必要なのですね。 山田:PAPAMOさんの話を聞いた時に、まさに「保育カンファレンス(会議)」をしているなと思いました。「あそび」というフレームワークを通して、こどもについて、保育の専門家、Jリーガーなどのプロ、そして保護者という多様な目で会議をしているという状態ですね。 山口:カンファレンスの一員にJリーガーなどのプロフェッショナルがいることはどのような意味がありますか? 山田:目の細かさだと思います。私が幼児教育の研究者だからといって100%こどものことがわかるかというと、そうではなくて、こどもの重心をとらえたり、運動時の心理を読み解くのはやはりプロの人の目の粒度が高いです。プロが関わることは園では難しいですが、新しい子どもの育ちの見方になると私は思います。
水墨画のあそぶ習い事
山口:「保育カンファレンス」であるということが、一つのPAPAMOの価値だとすると、もう一つの価値は「あそび」が軸になっているところだと思いました。 山田:「あそび」が軸になってることは大前提ですね。言われたとおりにやりなさいという場をカンファレンスしても、興味・関心は発露しないです。普通の習い事ですと、あのサッカーの蹴り方がよかったなど、成果に対するフィードバックになってしまい、こどもがどう向き合い、何を感じてたというのは全くフィードバックの範囲に含まれないんですよね。PAPAMOさんのやり方だと、こどもの動機に合ったフレームワークを提示できるので、その環境に合わせてまたこどもが遊べる。これはすごく画期的なことだと思います。 山口:改めて、都会のリソースが限られた中で、最適な「あそび」環境をデザインできると、こどものどんな力が伸びるのですか? 山田:応用力や、自己決定・自己選択力の他にも、我慢して継続する力、人の話を聞く力、人と協力する力など、包括的な人間性の成長につながると思います。あそびをカンファレンスすることによって、大人がこどもの「動機」の向かう先を深く理解することになるので、こどもも環境との相互作用によって、自分のやりたいことが見えてくるというのも大きいことですね。 山口:あそびと人間性の成長はつながっているのですね。PAPAMOはサードプレイスですが、保育園や家庭など、他にあそびをもっと届けるべき場所があるとすればどこですか? 山田:私は、本当はその子が生活の長い時間を過ごす家庭が一番効率がいいと思います。家庭を変えることは正直難しいのですが、サードプレイスの環境で得たことを家庭に持ち帰ることによって、サードプレイスが家庭自体を変容させる重要な要因になると思っています。 山口:なるほど。最も変化させて欲しいのが家庭だけれど、直接は難しいから、そこに影響を与えうる、かつ環境をデザインをしやすいサードプレイスにアプローチかけていく、ということですね。 山田:そうですね。PAPAMOさんでは多様な方が働かれているのがすごくいいなと思いました。保育園や幼稚園だと担任の先生だけですので、なかなかこういう環境は難しいです。 山口:担任制より入れ替わり制のほうがいいのですか? 山田:PAPAMOさんのように、常に担任のようにいる人と、多様に入れ替わる人が両方いるのがベストだと思います。常にいる人がいると、こどもも安心感を持てて信頼関係が築かれるんです。そういう安心基地がありつつ多様なプロもいるというのがいいですね。
あそぶ習い事の保育カンファレンス
楽しい”あそび”はプロまでの滑走路
山口:スポーツはある程度型があって、こうしろ、ああしろと言いがちだと思っていて、アートとかの方がより自由度が高いのかなと思うのですが、どちらがいいとかありますか? 山田:私は、あそびという意味では両方同じだと思っています。スポーツも最初からきついトレーニングから始めるのではなく、あそびの中から、「ボール蹴るって面白い」とか、「ルールってこういうことなのか」、「転んでも起き上がれるぞ」と楽しく知ることによって、もっと高度な鍛錬がしたい、あの憧れの選手に近づきたいという「動機」が自分から出てきます。アートも一緒で、最初からピカソを模写しなさいとか、色彩を考えて、ではなく、3歳の子だったらまずは手で絵具を塗りたくって感触を楽しむ。そのプロセスが楽しいからこそ、プロに必要な色彩の知識だったり写実的に模写する能力を自分から学ぶようになるんだと思います。この最初のあそびのプロセスは、まさにプロになるために滑走路のようなものだと思っています。 山口:あそびは、プロになるまでの滑走路なんですね。いきなり飛び立てと言われても無理ですもんね。 山田:はい。滑走路が短いと、低空飛行になるか、軽い飛行機しか飛べないです。高く長く飛ぶ時は、長い滑走路が必要です。滑走路の間で、自己選択・自己決定できる訓練、操縦できる訓練をするわけですね。
あそびの価値~先生の研究のお話~
山口:先生の研究内容について、少しお聞かせいただけますか? 山田:はい。私が今研究しているのは、まさにこどもの「興味・関心」、今回でいうところのこどもの「動機」です。という新しいシステムの開発をして映像と人工知能を使って「関心」を読み取るいます。あそびの効果は、語彙数を測るように分かりやすいものではなく、心情・意欲・態度などを見ているため「見えない教育」と呼ばれているくらい評価指標が難しいものです。「関心」が読み取れるならば、先生達がこどもをより深く理解する情報源になるため、このような新しい技術が今後教育自体を変えるのではないかと私は思っています。ツール自体は、医療や介護の分野でも活用しうると思っています。今、現場の先生達もこども一人ひとりに細く記録をつけてはいるのですが、とても多忙なため、一人ひとりについて他の先生と保育カンファレンスができるかといったらやっぱり難しい。5年以内に8割以上が辞めるほど離職率も高く、なかなか専門性が育たない問題もあります。その時に技術でこどもの「関心」が読み取れれば大きな助けになると思っています。
ブログテスト
山口:なるほど。「関心」を読み取るツールを開発されているんですね。こどもの行動をモニタリングするときは、あそび時間をモニタリングするのですか? 山田:主にそうです。なぜあそびなのかと言うと、夢中になっている時が一番人の心が無意識に動いて関心が出やすいからです。私の大きな夢でもありますが、これを通して保育の価値やあそびの価値を世の中に示したいと思っています。
将来的な「あそび」の価値
山田:今、大学4年生と接することがありますが、進路で悩んでいる人が多くいます。とりあえず大学に入っている人も多く、自分が幸せに感じること、やりたいことは何?と聞いても、分かりませんと言われます。一方で、自分のやりたいことが明確な人もいます。この違いは、小さいころにしっかり遊んだかだと考えています。あそびを通して、自分に最適なものを理解して、自分の道を自己選択・自己決定できる力が備わっていると、仕事は厳しい時や理不尽なときもありますけど、自分のやりたい仕事を自己決定できた人は、やはり踏ん張りがきくので継続力があると思います。 山口:大学3年生で迷う人の原因はそのずっと前にあるんですね。遊んでいると、将来的にも自分のやりたいことが分かったり、自己決定できる力が身に付くんですね。動機の向かっていない先に幸せはないように感じました。
山田徹志先生とGOB共同代表の山口高弘
山田:そうですね。幸せな人生には、動機の向かう先にあると思います。 山口:あそびゴコロや、あそびそのものに、存分に触れるべき時期はいつくらいでしょうか? 山田:私は10歳くらいまでだと考えています。30歳で遊んでも無駄、というわけではありませんが、一般的にも自己決定して行動する力の基礎はそのぐらいの時期に一番育つと言われていて、実際、就学前教育や、小学校の中学年くらいまでのこどもに対して力を入れて投資をしようという政策も増えています。 山口:今日は、長時間本当にありがとうございました!